4月です。
満開の桜は先日の暴風雨で
あっという間に散ってしまいましたが
街中に “始まり感” が溢れていますね。
かくゆう私も昨日から
息子10ヶ月の保育園が始まり
まだまだ慣らし保育で時間は短いですが
一つ育児の節目を感じています。
昨年の5月に生まれてから約11ヶ月。
重度障害の母の介護と並行しながら
家族にシッターさんやドゥーラさん
色々な手を借りてとりあえず乗り切った。
ここからはひとつ、
息子に早めに社会に出てもらって
せめて日中くらいは、
介護と仕事の負荷に戻させていただこうかと。
25歳から15年間、
在宅介護を続けてきた私が
40歳にして初めての育児と向き合い思うこと。
「介護と育児は似て非なるもの」
だということ。
・ごはん、ミルクorおっぱいをあげる
・おしっこうんちをきれいにする
・歯を磨く
・お風呂に入れる
・着替えをさせる
・眠らせる
・そして余暇時間の散歩や遊び、充実
人間が生きていくのに不可欠な
1日の生活習慣は、
乳幼児だろうと要介護の高齢者だろうと
そう変わりません。
だから介護も育児もそういう意味では一緒。
自分が当たり前のようにやっている
1日の生活習慣を
それができない他者のためにやってあげる。
・
ただし、
一方は目まぐるしい勢いで
日々できること、やれることが増えていく。
一方は緩やかに、もしくは突然に
やれていたことができなくなる。
一方はまだできないこと
その全てが愛おしく喜びに満ち溢れ
一方はまたできなくなること
その一つ一つに虚しさと憤りが募る
・
仕事のように対価をもらい
評価される労働とは違い
どれだけ身を粉にして捧げても
誰からの評価もない
そういう意味では、
介護と育児に共通すると思うけど
育児は、目の前の我が子がただ笑うこと
気持ちよく食べてくれること
昨日できなかったことができるようになる
その様子を目の当たりにするだけで
もう全てが報われている、そう感じるのです。
・
私は11ヶ月で息子を保育園に入れる決断をして
その働きかけが実り、
次の育児ステージへ行くことができました。
その時間は、振り返ればあっという間で
人生がどんどん前に進んでいく感覚。
「ここで一旦、
自分の手を少し離れ楽になる。」
こんな感覚は、介護を15年間していて
一度も感じたことがありませんでした。
「自分の手を離れて楽になる」
それは「死」を意味するときか
著しく容態が悪化し入院する時
それが介護の場合だから。
もちろんそれを望んでいないけれど
それはつまり自分の人生に
いつまでも制限がかかるということ。
だけども、大変でもただそこに居て欲しい。
生きていて欲しい。
このなんとも言えないジレンマを
皆さんどうやって解消しているんだろう?
解消なんてでき得ないか。
抱えながら今日を生きるしかないんだろう。
・
私は多分、根っこがとてもポジティブで
人の何倍もバイタリティのある人間だと
自分では思っています。
だけど、誰もが皆そうではないですよね。
私がポジティブに思っていても
私の家族は同じようには思えなかったりもする。
・
だけどそれも仕方ない。
介護する側の人生もまた
介護される側の人生と同じくらい
大切であり
尊いものなのだから。
「介護を楽しく、日々を豊かに」
なんてスローガンをトップページに掲げましたが
もちろんそう思えない日もある。
それが介護です。
きれいごとではない。
でも、だからこそ
「日々是好日」
そう思えない日も含めて
良いのです。
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