2024年12月11日18時17分
ついに母が天国に旅立った。
最期は「やすらかな顔」とはほど遠い
戦い抜いた戦士のような顔で逝った。
全く、ど根性の母らしい。
年明けには自宅に帰るつもりでいたし
少しずつ人口呼吸器の設定も低くなり
このまま外していけるんじゃないかと
頑張っていたが、
11月最終週くらいから
別の部分が炎症を起こし
直接の死因となる敗血症を
招いてしまった。
最期は腎機能が弱くなり
なにしろおしっこが出なくなった。
日々、点滴だ輸血だと
たくさんの水分が体内に入るのに
圧倒的に排出量が少ない。
最期の2週間は日に日に
とんでもないスピードで浮腫んでいった。
好転するパターンとしては
パンパンに浮腫んだ後
しっかりとおしっこが出始め
今度は逆にシワっシワに萎んでいく
風船のような理論だそうだが、
母の心臓はついに限界を迎えた。
いや、肉体は限界を迎えたが
気持ちはまだ闘う気でいたのだ。
それが伝わってくるような様だった。
全く、本当に、
いつも母はそうだった。
・
私も生粋の体育会系だし
かなり意志も根性も強い方だと思うが
死に際にこの踏ん張りはできそうもない。
遺体には水が溜まりすぎて
原型をとどめない顔つきだったので
本来死に化粧をする納棺師の方が
体内の水を10リットル以上
抜いてくれた。
葬儀を行う斎場の最短での空きが
命日から1週間後だったので
少し時間を稼げたことが功を奏した。
納棺師の方のおかげで
1週間後には多少原型を取り戻した顔で
葬儀を行うことができた。
本当に大変なお仕事で、感謝しかない。
・
1週間かけて体内の水を抜いている間
遺体安置所に面会にいけるということで
葬儀までの期間、毎朝足を運んだ。
驚いたことに、
遺体の肌にとっても
「保湿」が何より大切らしく
クリーム等を塗ることを勧められたので
毎朝顔にニベアを塗っておいた。
それが私が母にしてあげられる
最期の介護となった。
・
しかし本当によく頑張った。
それほどまでして生きようとする
理由はなんだったろうか?
そこで命を繋いでもまた
身動きの取れない生活が待っている。
今回10月から入院する中で2ヶ月間
ほぼ毎日面会に行った道中
車の中でよく考えていた。
「人は、なんのために生きるのだろうか?」
母の生き様を見て私が感じた答え。
生きることに
意味なんか持たなくても良いのだ。
生きるために、生きる。
生かされ続ける間
精一杯生きる、
もうただそれだけで良いのだ。
現代社会では、文明があって
生きがいだ、やりがいだと
私たちは求め続けるけど
もう究極そういうのは全部
取るに足らないことなのだ。
どんな状況でも
自ら生きることを放棄しない。
ただひたすらに命を全うする。
そういうことを教えられた気がする。
・
母の入院期間、
やっぱり今回は私もどこかで
死が近づいていることを悟っていたのか
夜、眠れないときに
「人は死んだ後どこに行くのか」
など検索してしまっていた。
その中で見つけた
とあるお坊さんのブログ記事が
なんだかすごく印象に残った。
お釈迦様からすると、
人間に与えられた「生きる」という行為。
これに執着することは
最大の賞賛に値することなのだとか。
「生きよう、生きよう」
と強く思う人こそ素晴らしいのだ。
そういう意味では母はもう
トップクラスの賞賛を得ることだろう。
きっと、天国行き特待生だ。
・
事故に遭ってから15年と9ヶ月。
あの日、尽きてもおかしくなかった命を
こんなにも長い時間紡いだ。
最期の数ヶ月は
病院でしんどかったと思うが
在宅で過ごしている多くの時間は
絶対に、絶対に、幸せだったと思う。
毎日家族がそばにいてくれる。
ただそれだけのことが
あまりにも幸せだったから
肉体を失ってもなお
逞しく生き抜いたのだろう。
本当に良く生き抜いた。
父も、兄も、私も
本当によく頑張った。
在宅介護を経験した者にしかわからない
多くの葛藤と不安と疲弊と、喜び。
命を間近にしないと気づき得ない
ささいな日常の幸せとが
常に横並びだった。
母の事故以前、てんでバラバラで
それぞれに喧嘩の絶えなかった
私たち家族。
15年と9ヶ月という
在宅介護生活を通して
「魂」が向上した。
きっとそのために起きた試練だった。
そしてそれを見事に乗り越え全うした。
みんな、最高にお疲れ様でした。
素晴らしい未来しか、見えないね。
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